普通であるという祝福サンプル

The Blessing of Ordinary

10日中 2日

心の清い人

私が育った時代は、クリスチャンが終末論に夢中になっていた時代でした。説教者は救い主の再臨が近いことを丹念に語り、いわゆる新生したクリスチャンは、携挙(けいきょ)、患難時代、千年王国と呼ばれるものの詳細について議論していました。

そのような状況の中で私は、孤児の世話をしたり炊き出しをしたり、やもめの足を洗ったりしている小さなことに忠実なクリスチャンを、イエスが再臨のときに呼びよせてくださると考えるようになっていました。一方、イエスが選ばなかった人々は教会の建物を燃やしたり、子犬を蹴ったり、ひどいことを好き勝手に続けているところをイエスの再臨の瞬間に見つかってしまうのですと……。

しかし、イエスがマタイによる福音書24章でご自身の再臨について述べられたとき、イエスのもとへ取り去られた者と、その場に取り残された者が、まったく同じ行いをしていたことがわかります。イエスが語られたたとえ話は、畑で働くふたりの男と、粉ひき場でうすをひくふたりの女です。ごく普通の何の変哲もない生活のふたつの場面であることがわかります。

そうです。確かに炊き出しをするのはすばらしいことですし、教会の建物を燃やすべきではありません。しかし、しばらくの間、イエスが再臨について語っていることに意識を向けてください……人々は普通の生活をしているでしょう。そして普通の生活をしても、神に喜ばれる方法とそうでない方法があるのです。

畑に取り残された男が何かひどい罪を隠し持っていたのか、主のもとへと取り去られた女が毎週千人のホームレスのために炊き出しを行っていたのか私にはわかりませんが、イエスが再臨について語られるのにドラマチックな人間模様ではなく、普通の生活からたとえられたことはわかります。

私たちはダビデの油注ぎ(あぶらそそぎ)のときのサムエルのように、とてもすばらしい人を見てこう言うかもしれません。「確かに、この人こそ主が油を注がれる人だ」。そして主が何をご覧になっているのかを忘れてしまいます。「わたしが見るところは人とは異なる。……主は心を見る」。どこにいても何をしていても、普通の生活でも輝くような一瞬の時でも、畑でもサッカー場でも、地味な労働をしている時でもショッピングモールで買い物をしている時でも、いつでもどんな時でも、主への礼拝を私たちはささげられるのです。

行いそのものよりも、神はその行いの理由を見ておられます。「イエスさま、今日の働きをしながら自分の心のあり方に気を払えるよう助けてください。普通の生活の一瞬一瞬を、すばらしい神様を礼拝する機会として祝福してください。」

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この読書プランについて

The Blessing of Ordinary

もし自分の霊的な生活をもっと輝かせるべきだというしつこい思いが、聖霊からのものでなかったとしたらどうしますか?このデボーションを読めば、どこか見知らぬもっと青々とした霊的な牧場(まきば)ではなく、今現在の自分の生活にある緑の牧場で人知では測り知ることのできない平安を見いだせるようになるでしょう。さあ、一緒にこれから始まる10日間を通して、普通の生活にあるすばらしさから祝福を見つけ、毎日の生活に満足することを学びましょう。

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このプランを提供してくださったMatt Orth氏に感謝します。詳細についてはこちらをご覧ください。 http://www.lesswithoutyou.com/matto/