主われを愛すサンプル
キリスト教の本質とは何ですか?
キリスト教の本質とは、キリストの基本的な教えのことです。本質をひとつでも取ってしまうと、キリスト教という家は倒れます。本質が重要なのは、あなたがそれをひとつでも失うと、あなたを造り変えるキリストの力を失ってしまうからです。教会が本質をひとつ失えば、人々や地域社会を変える神の救いの力を失います。
聖書はキリスト教の本質を定義しています―御言葉(みことば)は信仰の確信の中枢です。キリスト教の基本的な確信を知ろうとする理由は、魂における戦いが現実に起こっていることだからです。善と悪の戦いは、思考の領域で行われています―自分の確信をはっきりさせることで、良い考えと、ゆがんだり欺いたりする考えを見分けられるようになります。私たちは信仰によって、キリストの力と命につながるため、確信は正しくあることが必要なのです。
多くの人に愛されている賛美歌『Jesus Loves Me(ジーザス ラブス ミー)』(『主われを愛す』)の冒頭の一節は、キリスト教の本質をとらえています。
イエスは /私を / 愛してくださると / 私は知っている /それが聖書に記されていること(訳注:英語歌詞からの直訳)
この歌詞の意味が理解できれば、キリスト教の核となる部分はシンプルになります。こう考えてみましょう。
「イエス」―イエスについて私が信じること
イエスは完全に神であり、完全に人間であり、救主である。
「私」―自分自身について私が信じること
すべての人間は神の栄光を反映する存在であるが、滅びに束縛された存在でもある。神にかたどって造られたが、罪によって汚れている。悪によって堕落してしまった私たちを、イエスは「新しく造られた者」に修復できる。
「愛してくださる」―十字架で示された神の愛について私が信じること
イエスは救いの使命を持ってこの世に来られた。そして私たちの罪のために十字架で死なれ、死からよみがえられた。
「私は知っている」―救いの確信について私が信じること
私たちは自分で救いを得ることはできない。自ら救いの必要を認め(悔い改め)、イエスは神であると告白し、十字架のあがないを信じなければならない。
「聖書に記されている」―人生における神の基準について私が信じること
私たちが、すべての行いと信仰の不変の基準として聖書を選んだのは、イエスに倣うためである。キリストにあるアイデンティティーを知るためには、聖書を読み、従わなければならない。
このように歌詞から五つのフレーズに取り組むことで、どこに行ってもキリスト教の本質を覚えておけるのです。
祈り―この学びの旅で、私の目と心を開いてください。聖書から真理が分かるように導いてください。私の考え方を変えてください。あなたが私に信じてほしいと思われていることを、私が信じられますように。アーメン
この読書プランについて
「クリスチャンになるには何を信じればよいでしょう?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか? ジャーナリストから牧師に転身した著者が、誰もが知っている賛美歌『主われを愛す』のシンプルな歌詞を用いて、あなたが何を信じているのか、なぜ信じているのかを理解するお手伝いをします。ベストセラー作家、ジョン・S・ディッカーソン(John S. Dickerson)氏が、分かりやすく忠実に本質的なキリスト教の確信を説き、確信する大切さの理由を明らかにします。
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