信仰がなくなるとき―疑いのなかで神を見つける10日間サンプル
私たちは聖書に対し間違った見方をしてきたのではないか、と考えずにはいられません。この古代の書物が、歴史的、文化的、科学的、そして道徳的な問題すべてをどのように解決するかばかり気にしてきたので、疑ってしまうのかもしれません。しかし、もし聖書の第一の目的が、頭で理解できる知識を得ることではなく、私たちを神との豊かな交わりに導くことだとするならどうでしょう?
私たちは現代的な視点(どのように合理的か?)やポストモダン的な視点(どのように自分に語りかけるか?)で聖書を読む必要はないのかもしれません。聖書はページごと、物語ごとに、人となられたイエスを頂点に据えています。すなわち、奇妙で、不思議で、難しくて、挑戦的で、刺激的で、魅力的で、枠組みを逸脱した書物が聖書なのであり、私たちはそれをそのまま受け入れる必要があるのかもしれません。
そうだとするなら、どの関係にもいえるように、それには時間がかかります。
長い年月の間にカチカチに固まってしまった表層を掘り起こし、真実を明らかにするには忍耐がいります。
そして真実が明らかになったなら、自身の考え方を改めるために、くり返し謙虚にならなくてはなりません。
いずれにしても、聖書の著者たちも疑う者であったことに平安を見いだします。彼らも苦しみました。それでも「エマオへの道」を歩き続けたのは、最後にはそれだけの価値があると信じていたからでした。彼らはいつの日か、何らかのかたちで、救主に会えるという希望を持っていたのです。
そしてそれこそが、聖書が信頼に値する書物とされるだけでなく、生きる指針とされる故なのです。
この読書プランについて
信仰と疑いの格闘はとても寂しく孤立することがあります。沈黙のなかで苦しむ人もいれば、疑いと信仰は相いれないものと考えて完全に信仰を捨ててしまう人もいます。ドミニク・ドーン氏(Dominic Done)はどちらの場合も悲劇であり、大きな間違いであると考えます。ドーン氏は聖書と文学をもちいて、疑うことは正常なだけではなく、多くの場合は豊かで生き生きとした信仰に向かう道なのだと主張します。この10日間の読書プランをとおして信仰と疑いについて探っていきましょう。
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