ローマ人への手紙 9:21-33

ローマ人への手紙 9:21-33 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)

陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。 あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。 また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。 主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。 さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。 では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。

ローマ人への手紙 9:21-33 リビングバイブル (JCB)

ある人が粘土でつぼを作る時、その人は同じ粘土のかたまりを、一つは美しい花びんに、もう一つはふだん使いの容器に作り上げる権利を持っていないでしょうか。 そのように、どう考えても滅びるしかないような人々に対して、怒りと力を示す権利が神にないとでも言うのですか。しかも神は、これまでずっと忍耐してこられたのです。 同時に神は、ユダヤ人であっても外国人であっても、ご自分の栄光のために呼び出し、あわれみを与えることで、神がどんなに偉大な方かをすべての人に示す権利を持っておられます。 聖書のホセア書に何と書いてあるか、思い出してください。神は、こう言っておられます。 「わたしは自分のために、 ほかの子ら(ユダヤ人以外の家系の者)を 見つけ出し、 だれからも愛されたことのない、 その子らを愛する。 そして、かつては 『わたしの民ではない』と宣告された異教徒たちが、 『生ける神の子ら』と呼ばれるようになる。」 またユダヤ人については、預言者イザヤがこう語りました。 「たとえイスラエルの子どもの数が 海辺の砂のように多くても、 一握りの者しか救われない。 主はおことばを完全に、しかもすみやかに、 地上に成し遂げられる。」 イザヤはまた、ほかの箇所でこう語っています。 「神のあわれみがなかったら、 ユダヤ人はみな、 ちょうどソドムやゴモラに住む人々が 全滅したように、 一人残らず滅ぼされたに違いない。」 では、どういうことになるでしょう。信仰によって与えられる神の救いを求めなかった外国人は、救いの機会を得ました。まさに、信仰による救いです。神は、信仰によって無罪とされる機会をお与えになりました。 一方、ユダヤ人は律法を守ることによって、神の救いを追い求めようと努力したのに、それを得ることができませんでした。 なぜでしょう。信仰によってではなく、行いによって救われようとしたからです。彼らは、キリストというつまずきの石につまずいたのです。 このことについて、神は次のように警告しておられます。 「わたしはユダヤ人の通り道に、一つの岩を置く。 多くの者が、それ(イエス)につまずくであろう。 しかし、この方を信じる者は、 決して失望させられることがない。」

ローマ人への手紙 9:21-33 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 ホセアの書にも、次のように述べられています。 「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 『あなたたちは、わたしの民ではない』 と言われたその場所で、 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。 「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、 わたしたちはソドムのようになり、 ゴモラのようにされたであろう。」 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。 「見よ、わたしはシオンに、 つまずきの石、妨げの岩を置く。 これを信じる者は、失望することがない」 と書いてあるとおりです。

ローマ人への手紙 9:21-33 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)

陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、 「わたしは、わたしの民でない者を、 わたしの民と呼び、 愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。 あなたがたはわたしの民ではないと、 彼らに言ったその場所で、 彼らは生ける神の子らであると、 呼ばれるであろう」。 また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、 「たとい、イスラエルの子らの数は、 浜の砂のようであっても、 救われるのは、残された者だけであろう。 主は、御言をきびしくまたすみやかに、 地上になしとげられるであろう」。 さらに、イザヤは預言した、 「もし、万軍の主がわたしたちに 子孫を残されなかったなら、 わたしたちはソドムのようになり、 ゴモラと同じようになったであろう」。 では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 「見よ、わたしはシオンに、 つまずきの石、さまたげの岩を置く。 それにより頼む者は、失望に終ることがない」 と書いてあるとおりである。