ローマ人への手紙 9:6-20
ローマ人への手紙 9:6-20 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。
ローマ人への手紙 9:6-20 リビングバイブル (JCB)
それでは、ユダヤ人に対する神の約束は無効になったのでしょうか。そんなことはありません。ユダヤ人に生まれついた者がみな、真の意味でのユダヤ人だとは限りません。 血筋の上でアブラハムの子孫だからと言って、真の意味でのアブラハムの子孫とは限りません。なぜなら、アブラハムにはイサクのほかにも子どもがいたが、神の約束が適用されるのは、イサクとその子孫だけであると聖書にあるからです。 つまり、アブラハムの子どもが全部神の子なのではなく、神がアブラハムにお与えになった救いの約束を信じる人々だけが神の子どもなのです。 神はアブラハムに、「来年の今ごろ、わたしはあなたとサラに男の子を授けよう」と約束されました。 それだけでなく、彼の息子イサクの場合にも同じことが言えます。その妻リベカがみごもって、ふたごを産もうとしている時、神はリベカに、「兄が弟に仕える」とお告げになりました。「わたしはエサウではなく、ヤコブを祝福する」とあるとおりです。神がこう宣言されたのは、彼らがまだ生まれてもおらず、まだ良いことも悪いこともしていなかった時のことです。このことからもはっきりわかるように、神は最初から決めておいたことを実行されたのです。彼らの行いによってではなく、神の意思と選びによって、すべてが決定されたのです。 では、神は不公平なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。 神はモーセにこう言われました。「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」 したがって、神の祝福は、だれかがそれを得ようと決心したからとか、そのために努力したからといって与えられるものではありません。それは、神のあわれみによって与えられるものなのです。 エジプトの王パロの場合は、その良い例です。神はパロにこう言われました。「あなたにエジプトの国を与えたのは、わたしの恐るべき力をあなたに示すため、それによって、世界中の人々が、わたしの栄光ある名を耳にするためである。」 これでわかるように、神はみこころのままに、ある人々をあわれみ、ある人々を不従順な者とされるのです。 「では、なぜ神は人々の不従順をお責めになるのでしょう」と、あなたがたは言いますか。「神のお考えどおりにしたのではありませんか」と。 そんなことを言ってはなりません。神を非難するあなたは、いったい何者なのですか。造られた者が造った者に、「なぜ私をこのように造ったのですか」などと言ってよいでしょうか。
ローマ人への手紙 9:6-20 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。 「わたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ」 と書いてあるとおりです。 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、 慈しもうと思う者を慈しむ」 と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
ローマ人への手紙 9:6-20 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。