ルカによる福音書 8:4-21
ルカによる福音書 8:4-21 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。 この譬はこういう意味である。種は神の言である。 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。
ルカによる福音書 8:4-21 リビングバイブル (JCB)
ある日、話を聞こうと、大ぜいの群衆が町々村々から押しかけたので、イエスはこんなたとえ話をなさいました。 「農夫が、種まきをしようと畑に出かけました。種をまいているうちに、ある種は道ばたに落ちて、踏みつけられ、そのうち鳥が来て食べてしまいました。 土の浅い石地に落ちた種もありました。それは芽を出したのですが、水分が足りないので、すぐ枯れてしまいました。 いばらの中に落ちた種もありましたが、いばらがいっしょに生え出て、結局、成長できませんでした。 しかし、中には良い土壌に落ちた種もありました。それはぐんぐん育ち、百倍もの実を結びました。」イエスは話しながら、「聞く耳のある人はよく聞きなさい」と、みんなの注意をうながされました。 「そのたとえはどういう意味ですか。」弟子たちに質問されて、 イエスはお答えになりました。「あなたがたには神の国の奥深い真理を理解することが許されていますが、群衆はそうではありません。だから、たとえで話すのです。彼らは見たり聞いたりしても、少しも理解しようとしません。 さて、このたとえの意味を説明しましょう。種とは神の教えのことです。 ある種が落ちた道ばたとは、神のことばを聞いても、受け入れない頑固な心を表します。やがて悪魔が来て、それを持ち去り、信じて救われるのをじゃまするのです。 次に、土の浅い石地とは、喜んで教えは聞くものの、ほんとうの意味で心に根を張らない状態のことです。教えられたことはいちいちもっともだと納得し、しばらくの間は信じているのですが、迫害の嵐がやってくると、すぐにぐらついてしまうのです。 いばらの中の種とは、聞いて信じても、その後、いろいろな心配事や金銭欲、また人生のさまざまな重荷や快楽などに、信仰を妨げられてしまう人のことです。これでは、せっかく教えを聞いても、実を結びません。 良い土壌とは、素直で正直な心の人を表します。こういう人は、神のことばを聞くと、それをしっかり守り、実を結びます。」 また、次のようなたとえも話されました。「ランプをつけてから、すっぽりおおいをかけ、光をさえぎる人がいるでしょうか。ランプはあたりを照らすように台の上に置くものです。 これは、いつの日か、すべてのことが明るみに出されることを示しています。 だから、神のことばをどのように聞いたらよいか、よく注意しなさい。持っている者はさらにたくさん与えられ、持っていない者は、持っているつもりの物までも取り上げられてしまうからです。」 ある時、イエスの母と弟たちがイエスに会いに来ました。ところが、イエスが教えておられた家は黒山の人だかりで、とても中へは入れません。 だれかが、「先生。お母様と弟さんがたがお見えですよ」と知らせると、 イエスはみんなを見回し、「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて、それを守る人たちのことです」とお答えになりました。
ルカによる福音書 8:4-21 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、 『彼らが見ても見えず、 聞いても理解できない』 ようになるためである。」 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。 石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。 だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。 そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。 するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
ルカによる福音書 8:4-21 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。 この譬はこういう意味である。種は神の言である。 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。