ヘブル人への手紙 7:1-14

ヘブル人への手紙 7:1-14 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)

このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。 そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。 さて、レビの子のうちで祭司の務をしている者たちは、兄弟である民から、同じくアブラハムの子孫であるにもかかわらず、十分の一を取るように、律法によって命じられている。 ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、約束を受けている者を祝福したのである。 言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。 その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けているが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が、それを受けている。 そこで、十分の一を受けるべきレビでさえも、アブラハムを通じて十分の一を納めた、と言える。 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである。 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。

ヘブル人への手紙 7:1-14 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)

このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。 そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。 さて、レビの子のうちで祭司の務をしている者たちは、兄弟である民から、同じくアブラハムの子孫であるにもかかわらず、十分の一を取るように、律法によって命じられている。 ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、約束を受けている者を祝福したのである。 言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。 その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けているが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が、それを受けている。 そこで、十分の一を受けるべきレビでさえも、アブラハムを通じて十分の一を納めた、と言える。 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである。 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら-民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが-なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。

ヘブル人への手紙 7:1-14 リビングバイブル (JCB)

メルキゼデクは、サレムの町の王で、非常に高貴な神の祭司でした。アブラハムが多くの王たちとの戦いに勝って凱旋した時、メルキゼデクは出迎えて祝福しました。 その時アブラハムは、戦利品の十分の一をメルキゼデクに差し出しました。メルキゼデクという名前の意味は「正義」であり、サレムという町の名は「平和」を意味していました。ですから、彼は正義の王であり、平和の王です。 メルキゼデクには父も母もなく、先祖の記録もありません。また誕生も死もなく、そのいのちは神の子のいのちに似ています。それゆえ、彼は永遠に祭司なのです。 メルキゼデクがどんなに偉大な人物であるか、考えてみましょう。神がお選びになった人の中で最も尊敬されていたアブラハムでさえ、メルキゼデクには、王たちからの戦利品の十分の一をささげました。 メルキゼデクがユダヤ人の祭司であったなら、アブラハムのこの行為もうなずけます。後に神の民は、血のつながった部族(レビ族)である祭司のために献金することを、律法によって義務づけられたからです。 ところが、メルキゼデクはアブラハムの一族ではないのに、アブラハムからささげ物を受け、アブラハムを祝福しました。 言うまでもなく、祝福を与える人は、祝福を受ける人よりも偉大なはずです。 またユダヤ人の祭司たちは、やがては死ぬべき人間であるにもかかわらず十分の一のささげ物を受けましたが、メルキゼデクは、永遠に生きていると言われています。 さらに、十分の一を受けるユダヤ人の祭司の先祖であるレビ自身も、アブラハムを通してメルキゼデクに十分の一をささげたと言えるでしょう。 なぜなら、レビはまだ生まれてはいませんでしたが、メルキゼデクに十分の一をささげた、アブラハムの直系の子孫だからです。 もし、ユダヤ人の祭司と律法に私たちを救う力があるとしたら、なぜ神は、あえてアロンの位に等しい祭司〔ユダヤ人の祭司はすべてアロンの位を受け継いでいる〕ではなく、メルキゼデクの位に等しい祭司であるキリストをお立てになったのでしょうか。 新しい家系の祭司が立てられる時、それを受け入れるために、律法も改められなければなりません。キリストがレビ族とは別の部族であり、モーセが祭司として任命したこともないユダ族の出身であったことは、周知の事実です。

ヘブル人への手紙 7:1-14 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。 ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。 それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。 さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。 更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。 そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。 ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。 祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。 このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。 というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。