伝道の書 2:15-26

伝道の書 2:15-26 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)

わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。 そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

伝道の書 2:15-26 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)

わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。 そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

伝道の書 2:15-26 リビングバイブル (JCB)

知恵の足りない人が死ぬように、いずれこの私も死ぬということです。それなら、知恵をつけたところで、いったい何の益があるというのでしょう。私は、知恵をつけることでさえむなしいものだと悟ったのです。 賢い人も愚かな人も死ぬのです。時がたてば、両者とも、すっかり忘れられてしまいます。 私はここまでわかると、生きているのがいやになりました。人生は不条理きわまりないからです。何もかもむなしく、風を追うようなものです。 一生懸命に築き上げたものが他者のものになると思うと、いやになってきます。 そればかりか、跡取り息子が愚か者か賢い者か、だれにわかるでしょう。それでも、私の財産はすべて、息子のものになるのです。なんと気分がめいることではありませんか。 こうして、満足感を与えてくれると考えていた労苦も愚かしく思われ、見切りをつけました。生涯をかけて知恵や知識や技術を追求しても、せっかく手に入れたものを全部、何もしなかった者に譲るはめになるのです。そんな者が、私が努力して得たものを受け継ぐのです。むなしいだけでなく、不公平です。どれほど必死に働いても何の役にも立ちません。あるものといえば、悲しみと悩みに押しつぶされそうな、心の休まらない日々と眠れない夜です。全くむなしい話ではありませんか。 そこで私は、食べたり飲んだりすることと、労働を楽しむこと以外に生きがいはない、と判断しました。しかも、このような楽しみさえ神の御手から来るとわかったのです。というのも、神の世話にならなければ、だれも食べたり楽しんだりすることはできないからです。神は、お心にかなった者に知恵、知識、喜びを与えます。ところが神は、罪人が金持ちになると、その財産を取り上げ、お心にかなった者に分け与えるのです。ここにも、風を追うようなむなしさの一例があります。

伝道の書 2:15-26 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

わたしはこうつぶやいた。 「愚者に起こることは、わたしにも起こる。 より賢くなろうとするのは無駄だ。」 これまた空しい、とわたしは思った。 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。 やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。 賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。 人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。 しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの。 自分で食べて、自分で味わえ。 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。