コリント人への第二の手紙 11:4-33
コリント人への第二の手紙 11:4-33 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。 事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。 たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。 それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、神の福音を価なしにあなたがたに宣べ伝えたことが、罪になるのだろうか。 わたしは他の諸教会をかすめたと言われながら得た金で、あなたがたに奉仕し、 あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。 わたしの内にあるキリストの真実にかけて言う、この誇がアカヤ地方で封じられるようなことは、決してない。 なぜであるか。わたしがあなたがたを愛していないからか。それは、神がご存じである。 しかし、わたしは、現在していることを今後もしていこう。それは、わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者どもから、その機会を断ち切ってしまうためである。 こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。 しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。 だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。 多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。 あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。 実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。 言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。 彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。 彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。 もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが、 その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。
コリント人への第二の手紙 11:4-33 リビングバイブル (JCB)
あなたがたときたら、だまされやすく、だれかが私たちの伝えたのとは違う教えを伝えたり、あなたがたが受けた聖霊とは違う霊を伝えたり、あなたがたが救われたのとは違う救いの道を教えたりすると、簡単にそれを信じてしまうのですから。 けれども、そんな自称「神の大使徒たち」が私よりすぐれているとは思いません。 たとえ口べたであっても、少なくとも、自分が話している内容はよく知っています。それは何度も証明してきたことです。 私が何の報酬も受けずに、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことは、まちがいだったのでしょうか。そのために自分を安っぽく見せて、見下げられてしまったのでしょうか。 あなたがたのところにいる間、何の負担もかけないで奉仕したいと、むりを言って諸教会から送ってもらっていたのです。それが底をついて、食べる物に事欠いた時も、あなたがたにはいっさい要求しませんでした。マケドニヤのクリスチャンたちが、別の贈り物を持って来てくれたからです。あなたがたには、これまで少しも求めてこなかったように、今後もそうするつもりです。 このことは、あらん限りの真実にかけて、ギリシヤに住むすべての人に約束します。 なぜそうするのでしょう。あなたがたを愛していないからだとでも? とんでもない。どれほど愛しているか、神様がご存じです。 しかし、今のやり方を、これからも続けるつもりです。それは、私たちと同じように神のために働いていると誇る人たちにつけこむ機会を与えないためです。 彼らは、決して神から遣わされた者ではありません。「詐欺師」です。キリストの使徒だと思い込ませるのです。 しかし、そんなことには今さら驚きもしません。サタンでさえ、光の天使に変装するのです。 ですから、サタンの手下どもがまねをし、敬虔な牧師になりすましたとしても、特別驚くことはありません。最後は、その悪事にふさわしいものとなるのです。 もう一度くり返しますが、こんなことを言う私が、理性を失ったなどとは思わないでください。しかしまた、それならそれで、「理性を失った愚か者」のことばに、とにかく耳を傾けてください。あの人たちみたいに、私も少しばかり誇ってみせます。 こんな自慢話は、主に命じられてするのではありませんが。私は、知恵のない愚か者のつもりになって、 自分の偉さをしきりに言いふらす人たちのまねをしてみましょう。 賢いあなたがたなのに、よくもうれしそうに、あの愚か者たちの言うことを聞いていますね。 奴隷にされ、持ち物を奪われ、利用され、いばられ、顔をたたかれているのに、よく平気でいられますね。 口にするのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。私たちの態度が弱すぎたのです。 しかし、彼らが誇るくらいのことは何でも――またしても愚か者のつもりで言いますが――私だって誇れるのです。 彼らは、ヘブル人だと自慢しているのですか。私もヘブル人です。自分たちは神の選びの民、イスラエル人だと言うのですか。私もそうです。アブラハムの子孫ですか。私もそうです。 彼らはキリストに仕えていると言うのですか。しかし、私はもっと仕えてきました。こんなに自慢をする私は、気でもおかしいのでしょうか。 私の労苦は彼らの比ではありません。投獄されたこともかなりの回数に及び、むち打たれたことは数えきれず、何度も死に直面しました。 ユダヤ人から、恐ろしい三十九回のむち打ちの刑を受けたことが五度あります。 それから、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったことが一度あります。 幾度も長い苦しい旅をし、川がはんらんしたり、強盗に襲われたり、同国人からも外国人からも迫害されたりして、何度も危険な目に会いました。町々では暴徒に取り囲まれ、荒野や嵐の海でやっと命びろいしたこともあります。クリスチャンだと自称しながら、実はそうでない人たちに苦しめられたこともあります。 疲れ果て、苦しみ、たびたび眠れない夜を過ごしました。飢え渇き、食べ物もなく過ごしたこともしょっちゅうです。また服もなく、寒さに震えていたこともありました。 こんなことのほかに、諸教会がどうなるかという心配を絶えずかかえています。 誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手に激しく怒らずにいられるでしょうか。 しかし、もしどうしても誇る必要があるなら、私はむしろ、自分の弱さを誇ります。 主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が真実を語っているのをご存じです。 こんなこともありました。ダマスコで、アレタ王の代官が私をつかまえようと町の門を厳重に見張っていましたが、 私は、町の城壁の穴から綱のついたかごでつり降ろされ、逃げることができたのです。よく知られている出来事です。
コリント人への第二の手紙 11:4-33 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。 あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。 たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。 それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。 わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。 あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。 わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。 なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。 わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。 こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。 もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。 わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。 多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。 賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。 実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。 言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。 彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。 主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、 わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
コリント人への第二の手紙 11:4-33 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。 事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。 たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。 それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、神の福音を価なしにあなたがたに宣べ伝えたことが、罪になるのだろうか。 わたしは他の諸教会をかすめたと言われながら得た金で、あなたがたに奉仕し、 あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた。こうして、わたしはすべての事につき、あなたがたに重荷を負わせまいと努めてきたし、今後も努めよう。 わたしの内にあるキリストの真実にかけて言う、この誇がアカヤ地方で封じられるようなことは、決してない。 なぜであるか。わたしがあなたがたを愛していないからか。それは、神がご存じである。 しかし、わたしは、現在していることを今後もしていこう。それは、わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者どもから、その機会を断ち切ってしまうためである。 こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。 しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。 だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。 多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。 あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。 実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。 言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。 彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル人なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。 彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼ら以上にそうである。苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。 もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。 ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕えるためにダマスコ人の町を監視したことがあったが、 その時わたしは窓から町の城壁づたいに、かごでつり降ろされて、彼の手からのがれた。