コリント人への第一の手紙 15:36-58
コリント人への第一の手紙 15:36-58 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。
コリント人への第一の手紙 15:36-58 リビングバイブル (JCB)
なんと愚かな質問でしょう。畑を見ればわかるではありませんか。まいた種は、まず死ななければ芽を出しません。 そして、その種から出る緑の芽は、初めの種とは全く別物です。土にまくのは、麦でも何でも、干からびた小さな種粒です。 ところが神様は、その種に、それぞれにふさわしい、美しく新しい体を与えてくださいます。それで、いろいろな種類の種から、それぞれ植物が成長してくるのです。 いろいろな種類の種や植物があるように、肉にもいろいろな種類があります。人間、獣、鳥、魚の肉は、それぞれみな異なっています。 天使は、私たちとは全く異なった体を持っています。その美しさや栄光は、人間の体の美しさや栄光とは異なっています。 太陽には太陽の栄光があり、月や星には別の栄光があります。一つ一つの星にも、美しさや輝きに違いがあります。 同じように、死んだら朽ち果てる、私たちの地上の体は、復活の時に与えられる体とは異なったものです。復活の体は決して死にません。 いま持っている体は、病気や死で私たちを悩ませます。しかし復活の時には、それは栄光に満ちたものとなるのです。確かに、今は死ぬべき弱い体ですが、復活の時には力にあふれた体となるのです。 そして、今は死ぬべき人間の肉体にすぎませんが、復活の時には、神から与えられる霊の体になります。自然のままの肉体があるように、神からの霊の体も存在するのです。 聖書には、「最初の人アダムは、生きたものとなった」と書いてありますが、キリストは、いのちを与える方となられたのです。 初めはこのような体をまとっている私たちも、後には、霊の体を与えられます。 アダムは地上の土から造られた者ですが、キリストは天から来られた方です。 人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリストのものとなった人はみな、キリストと同じ、天から与えられる体を持つようになるのです。 今アダムと同じ体を持っている私たちは、そのように、いつの日かキリストと同じ体を持つのです。 愛する皆さん。念を押して言います。地上の、血と肉の体は、神の国から閉め出されます。今の私たちの体は死ぬべきもので、永遠に生きることはできません。 ここであなたがたに、驚くべき神の奥義を告げましょう。私たちはみな、新しい栄光の体をいただくのです。 終わりのラッパが鳴り渡る時、一瞬のうちにそうなるのです。天からラッパの音が響くと、死んでいたすべてのクリスチャンは、たちまち朽ちない新しい体に復活します。次に、まだ生き残っている者もまた、一瞬にして新しい体に変わるのです。 なぜなら、地上の死ぬべき今の体は、天上の決して死ぬことのない、永遠に生きる体に変えられなければならないからです。 この時、「死は勝利にのみ込まれた」という聖書のことばが現実となるのです。 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」罪、すなわち死をもたらすとげは、ことごとく切り取られます。そして、罪をあばく律法も、もはや私たちをさばきません。 これらのことを、どう神に感謝したらよいでしょう。神様は、主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださるのです。 愛する皆さん。このように将来の勝利は確実なのですから、しっかり立って、動揺することなく、いつも、主の働きに熱心に励みなさい。なぜなら、復活は確かであり、主のための働きが決してむだに終わらないことを、あなたがたは知っているからです。
コリント人への第一の手紙 15:36-58 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。 「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
コリント人への第一の手紙 15:36-58 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。 「死は勝利にのまれてしまった。 死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。 死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。 死のとげは罪である。罪の力は律法である。 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。