コリント人への第一の手紙 14:2-40
コリント人への第一の手紙 14:2-40 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)
異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。 しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。 異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。 わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。 だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。 また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。 また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。 それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。 世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。 もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。 だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。 このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。 もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。 すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。 そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。 感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない。 わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。 しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。 兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。 律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。 このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。 もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたを気違いだと言うだろう。 しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、 その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。 もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。 もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。 預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。 しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。 あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。 かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。 神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。 もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。 それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。 もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。 もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。 わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。
コリント人への第一の手紙 14:2-40 リビングバイブル (JCB)
もしあなたが、聞いたことのない特別なことばである異言を語る場合、それは神への語りかけであって、人々へのことばではありません。人々には、そのことばが理解できないからです。あなたは聖霊の力によって語るのですが、それはみな隠された奥義なのです。 しかし、神から託されたことばを語る者は、人々を励まし、慰め、人々の主にある成長を助けます。 ですから、異言を語る者は、自分の信仰を成長させますが、神のことばを語って預言する者は、教会全体が成長することと、きよくなることとを助けるのです。 私はあなたがたがみな異言を語ることを望んでいますが、それにもまして、神のことばを語って預言することを望みます。なぜなら、聞いたこともないことばで話すよりも、預言することのほうが、はるかにまさっており、有益だからです。もっとも、異言のあとで、その内容をわかるように説明できるなら、それも少しは役立つでしょう。 愛する皆さん。私があなたがたのところで異言を語ったとしても、どうして益になるでしょう。しかし、もし神から与えられた啓示を明かし、神を理解する知識や預言、聖書の解き明かしを語るなら、それは、あなたがたにとって必要かつ有意義なことです。 異言で語るより、はっきりした、わかりやすいことばで語るほうがよいことは、笛やハープのような楽器のことを考えてみてもわかります。はっきりした音色が出なければ、どんな曲を演奏しているのか、だれにもわからないでしょう。 もしラッパがはっきりした音を出さなければ、それが戦闘の合図であっても、兵士にはわかりません。 相手に理解できないことばで話しかける場合も同じことです。まるで、だれもいない空間に話しかけるようなものです。 世界には非常に多くのことばがありますが、どのことばも、それがわかる人にはすばらしいものです。 ところが私がそのことばを知らなかったら、話しかけてくる人と私とは、お互いに外国人同士ということになります。 あなたがたは、聖霊が下さる賜物を熱心に求めているのですから、教会全体の益となるような、最善のものを求めなさい。 異言を語る人は、そのことばを自分で理解する力も与えられるように祈りなさい。そうすれば、あとで人々にわかりやすく説明できます。 もし私が、自分でも理解できないことばで祈るなら、霊では祈っていても、自分では何を祈っているのかわかりません。 では、どうすればよいのでしょう。異言で祈り、また、だれにでもわかる普通のことばでも祈るのです。異言で賛美し、また、自分にもわかるように、普通のことばでも賛美するのです。 もしあなたが異言を用いて、霊だけで神を賛美し、感謝をささげても、それを理解できない人たちは、どうしていっしょに賛美できるでしょう。また、どうしていっしょに感謝できるでしょう。 確かに、あなたは心からの感謝をささげているのでしょうが、そこにいる人たちには何の益にもならないのです。 私は、個人的には、あなたがたのだれよりも多く異言を語ることを、神に感謝しています。 しかし公の礼拝の場では、異言で一万語話すよりも、人々に役立つ五つのことばを話すほうが、ずっと良いのです。 愛する皆さん。こんな道理がわからないような子どもであってはなりません。悪事をたくらむことにかけては、無邪気な赤ん坊でありなさい。しかし、こうしたことを理解する点では、知恵のある大人になりなさい。 聖書に言われています。「主は、もつれた舌と外国のことばで自分の民に語るが、それでもなお、民は耳を傾けない」と。 異言は信者のためではなく、信じない人々のさばきのしるしとして語られるのです。預言はクリスチャンにとって必要なものですが、クリスチャンでない者は、まだ、それを聞く準備ができていません。 それにしても、初心の人とか信者でない人が教会に来て、聞いたこともない国のことばで語っている場面に出くわしたら、きっと気が変になっていると思うでしょう。 しかし、もしあなたがたが、神のことばを語って預言しているなら、まだ救われていない者やクリスチャンになったばかりの者も、自分が罪人であるとはっきり自覚するでしょう。そして、耳にする一つ一つのことばによって良心を刺されるでしょう。 そのうちに、心の中の隠れた思いがあばかれ、ついには、「神はほんとうにあなたがたの中にいる」と言ってひれ伏し、神を礼拝するでしょう。 さて、皆さん、私の言おうとすることをまとめてみましょう。あなたがたが集まる時には、ある人は賛美し、ある人は教え、ある人は神から教えられた特別の知識を語ります。ある人は異言を話し、またある人は、その異言の内容を人々に説明します。ただし、これらはすべて全体の益となり、一同が主にあって成長できるよう役立つものでなければなりません。 異言で話すのは、せいぜい二人か、多くても三人どまりにしなさい。一人ずつが順番に話し、その内容を解き明かせる人がそばにいなければなりません。 もし解き明かしのできる人がいなければ、教会では語ってはいけません。自分一人で、神に向かって語りなさい。 預言する人も、二人か三人が一人ずつ預言しなさい。そして、ほかの人はみな、それを聞くのです。 しかし、だれかの預言中に、別の人に主から特別の啓示が与えられたら、先に話していた人は口をつぐみなさい。 このようにして、預言の賜物に恵まれている人は代わる代わる話しなさい。そして、だれもが学び、励まされ、助けを受けるのです。 神からことばを与えられている人は、自分の番が来るまで自制して待つ力も与えられていることを忘れてはなりません。 神様は無秩序や混乱の神ではなく、秩序と平和の神だからです。 女性は教会の集会では黙っていなさい。口をはさんではいけません。なぜなら、聖書にもはっきり記されているように、女は男に服従すべきだからです。 もし何か質問があれば、家で夫に尋ねなさい。教会の集会で意見を述べることは、女性としてふさわしくないからです。 この考えに異存がありますか。神の御心を知るのは自分たちコリントの信者だけの特権だ、とでも思っているのですか。それはまちがっています。 預言の賜物や、そのほか聖霊が与えてくださる賜物に恵まれていると自認する人はまず、私の主張が主からの命令であると認めなければなりません。 もしそれを認めないなら、その人も認められないでしょう。 ですから、信仰の友である皆さん、神からのことばをはっきりと語れる預言者になれるよう、熱心に願いなさい。また、異言を語るのはよくないなどと言ってはなりません。 ただし、何事も適切に秩序正しく行うようにしなさい。
コリント人への第一の手紙 14:2-40 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)
異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。 律法にこう書いてあります。 「『異国の言葉を語る人々によって、 異国の人々の唇で わたしはこの民に語るが、 それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』 と主は言われる。」 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。
コリント人への第一の手紙 14:2-40 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)
異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。 しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。 異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。 わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。 だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。 また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。 また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。 それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。 世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。 もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。 だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。 このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。 もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。 すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。 そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。 感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない。 わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。 しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。 兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。 律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。 このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。 もし全教会が一緒に集まって、全員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう。 しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、 その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。 もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。 もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。 預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。 しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。 あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。 かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである。 神は無秩序の神ではなく、平和の神である。 聖徒たちのすべての教会で行われているように、 婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。 もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。 それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。 もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。 もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。 わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。 しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。