コリント人への第一の手紙 11:19-34

コリント人への第一の手紙 11:19-34 Colloquial Japanese (1955) (JA1955)

たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。 しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。

コリント人への第一の手紙 11:19-34 リビングバイブル (JCB)

たぶん、あなたがたは、だれが正しいかをはっきりさせるには、分裂もやむをえないと思っているのでしょう。 あなたがたの集まりは、主の晩餐のためではなく、 自分たちの食事をするためのものになっています。ほかの人と分け合おうと待っている人など一人もいず、われ先に食べているそうではありませんか。そのため、十分食べられずにお腹をすかしている者もいれば、浴びるほど飲んで酔っぱらっている者もいるということです。 なんということでしょう。ほんとうに、そうなのですか。食べたり飲んだりなら、自分の家でできるではありませんか。そうすれば、教会の名誉を傷つけたり、食べ物を持って来られない貧しい人たちに、恥をかかせたりしないですみます。このことについて、何と言ったらよいでしょう。ほめてでも、もらいたいのですか。そうはいきません。 なぜなら、以前あなたがたに伝えたとおり、聖餐式について、主ご自身がこう言われたからです。すなわち、ユダが主イエスを裏切った日の夜、主イエスはパンを取り、 神に感謝の祈りをささげてから、ちぎって弟子たちに与え、こう言われました。「取って食べなさい。これは、あなたがたのために裂かれる、わたしの体です。わたしを思い出すために、このようにして食べなさい。」 夕食の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、神とあなたがたとの間の新しい契約です。この契約は、わたしの血によって立てられ、効力を発します。これを飲むたびに、わたしを思い出すため、このようにしなさい。」 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、「主は私たちのために死んでくださった」という主の死の意味を、くり返し告白するわけです。主が再び来られる時まで続けなさい。 ですから、もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。 したがって、聖餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を省みなければなりません。 もしキリストの体を気にもかけず、その意味を考えもせずに、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神のさばきを招くことになります。キリストの死をもてあそんだわけですから。 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、また死者も出たのはそのためです。 しかし、食べる前に注意深く自分を省みるなら、さばきや懲らしめを受けることはありません。 けれども、私たちが主にさばかれ、懲らしめられるのは、この世の人々といっしょにさばかれないためです。 こういうわけですから、愛する皆さん、主の晩餐に集まる時は、皆がそろうまで待ちなさい。 ほんとうに空腹な人は、家で食べなさい。それは、いっしょに集まりながら、自分の身に罰を受けないためです。そのほかのことは、そちらに行ってから話しましょう。

コリント人への第一の手紙 11:19-34 Seisho Shinkyoudoyaku 聖書 新共同訳 (新共同訳)

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。 あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。

コリント人への第一の手紙 11:19-34 Japanese: 聖書 口語訳 (口語訳)

たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。 しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。