もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。 もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。 そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。 もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。
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